見どころ

南部家霊廟バンガローのAタイプ

南部家霊廟は昭和五年、第四十四代利英公のときに建立された。第四十三代利淳公の遺言によるもので、同年11月九日利淳公のご遺骨が初めて納骨された。


千体地蔵堂・本尊子安地蔵尊

文化5年(1808)第十一代藩主利敬(としたか)公代に蝦夷地(北海道)警護の功績により10万石から20万石に加増されたのを祝って創建された。高さは約三十五メートル、総工費五千両ともいわれ江戸中谷の五重の塔を模して造られた。

明治になると版籍奉還、神仏分離令などで寺は寺禄を失って衰退。境内にある多くの建造物や什物が破却あるいは売却されてしまったが、塔の一階部分だけは、藩校「日新堂」の創設者の一人であった旧藩医八角高遠(やすみたかとう)が私財を投じて購入して寺へ寄進、かろうじて残った。その後も荒廃したままであったが大正十一年篤志家木村栄次郎氏が発起人となってお堂の内部に千体の地蔵を奉納する運動をおこし、地蔵供養の布施をお堂の維持費用にあてた。地蔵堂の北面に「千体佛奉安記」の額が掲げられている。

内部中央に本尊として、南部家ゆかりの子安地蔵尊(亀子大明神)を安置している


盛岡三十三観音 第十七番札所 聖観世音菩薩像

もと盛岡市梨木町(現在の長田町―河北小学校敷地内)にあった葛巻家の菩提寺である円通山明宜庵に祀られていた仏像である。昭和二十二年廃寺となったため聖寿寺別院の七福堂へ移された。寄木造りの漆箔であり、右手には説法印を結び、左手には未敷蓮華を持っている。極めて緻密な彫刻が施されており、藤原様式をもとにした室町期のものと考えられている。

観世音菩薩像を安置している七福堂は戦後に建立されたお堂で、明宜庵に合祀されていた七福神を祀っていたためこの名がついた。恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七尊像が 一堂に会しているのは全国でも珍しい。生き生きとして表情豊かな彫刻は、江戸時代の仏師の作によるものといわれている御開帳は、正月は松の内の期間。


歴代南部藩主の墓地へ続く石段

花火大会イメージ

歴代の藩主とそのご家族の墳墓群ががひっそりとたたずむ。
墓地を抜けると高松の池や愛宕方面へ向かう散策路コースへ合流するすることができる。


光行

◆ 初代 南部光行公の墓 

 

南部 光行(みつゆき)公は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。戒名雲樹院昭山輝公大禅定門。加賀美遠光の三男とされ、南部氏の始祖である。治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたことにより甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。
文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部五郡を与えられた。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。
光行公のお墓は、当初鎌倉の極楽寺にあったものであったが、大正十年(1921)聖寿寺へ移設された。聖寿寺境内で最も高所に置かれており鎌倉時代の墳墓の形を今に伝える貴重なものである。

◆ 第二十六代 南部重直公の墓 

重直(しげなお)公は、利直公の三男。母は蒲生氏郷の娘・源秀院。寛文4年(1664)に逝去し、聖寿寺で埋葬された最初の藩主となった。戒名は、即性院殿前城州太守三峰宗玄大居士。藩政においては祖父・南部信直の時代に着工した盛岡城の築城工事を完成させるなど、盛岡藩の基盤固めに専念した。豪胆な気質で多くのエピソードをもつ。平成十八年盛岡市教育委員会による発掘調査が行われ、慶長小判や鉄製品・陶磁器などが出土し貴重な歴史的資料となった。

◆ 楢山佐渡の墓      

幕末の南部藩に起きた総勢3万5千人とも言われる日本最大規模の一揆を取りまとめ、藩の武士からも農民からも慕われた。 主席家老として藩財政の建て直しをはじめ制度改革を行なう。
戊辰戦争においては藩を奥羽越列藩同盟に同盟させた主導者となり新政府軍と対抗する立場をとる。秋田戦争において指導的な立場にあったが敗れ、戦争の責を負って報恩寺で切腹。享年三十九歳。聖寿寺へ埋葬された。戒名は大雄院威山英秀居士。
辞世の句は、『花は咲く 柳は萌ゆる 春の夜に  うつらぬものは 武士(もののふ)の道』