三光国師

聖寿寺開山  孤峰覚明(こほうかくみょう)

 

バンガローのAタイプ

禅師は南朝の後醍醐天皇からは國済国師の号 、 また 北朝の後村上天皇から三光国師号を賜った稀代の高僧である。

文永八年(1271)陸奥国会津(福島県)の生まれ八年間比叡山で学び、和歌山の法灯国師(無本覚心)に参禅し3年で印可を受ける。その後も佛國禅師(高峰顕日)、大応国師(南浦紹明)に師事応長元年(1311)、元に渡り天目山に中峰明本・古林清茂などに歴参した
帰国後、瑩山紹瑾に就いて菩薩戒を受ける。島根県・出雲に赴き宇賀荘に雲樹寺を開創した。
京都の妙光寺・和歌山の興国寺の住持を歴任、正平六年(1361)6月27日示寂。九十一歳。
語録に「徹心録」がある。

照顧脚下(しょうこきゃっか)

バンガローのBタイプ

 

禅寺の玄関には必ずと言っていいほど「照顧脚下」の木札が掲げてある。
当寺の開山である孤峰覚明禅師が、弟子の一人に「禅の極意とは何ですか」と問われた時、「照顧脚下」と答えたことが最初といわれている。

「照顧」は、「照らし顧みよ」から「よく見よ」ということ。「脚下」は「足元」のこと。「看脚下」ともいう。(「看脚下」は中国五祖法演禅師の弟子克勤(こくごん)の見解(けんげ)といわれる。)

一般には、他に向かって理屈を言う前に、まず自分自身を見つめ直すこと。あるいはまた、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきこととして使われている。
「足元をよく見なさい」ということから、「履物を揃えなさい」という意味で用いられることもあるが、これは少し拡大解釈
それにしても、そのとき孤峰覚明禅師が弟子に対して、『脚下を照顧せよ』と答えた真意は如何なるものだったのだろうか。

時代は遡って中国は唐の時代、臨済宗の開祖である臨済禅師が、まだ修行僧だった頃。師匠の黄檗禅師に同じ質問をしたことがあった。そのとき黄檗は何も言わずに臨済を棒でしたたか打っただけであった。臨済はなぜ打たれたのか分からないまま、三度まで同じ質問をしたが、三度とも打たれるばかりだったという。
しかし、それが起縁となって、後に大悟することができ、臨済宗の開祖となったのである。

どんな教え方が弟子の心に適っているか、生きている時代も違えば人の性格も様々で一概に言えるものではないが、禅師が「照顧脚下」と教えた真意は、単に言葉の意味ををなぞって済むような生易しいものではなかったはず。その弟子にとっては、打たれるよりも厳しいものを含んでいる言葉だったかもしれない。さて、どうしたものか・・・・・。