「聖寿寺」は建長六年(1254)、南部家第二代南部実光公により初代光行公の菩提を弔うため、現在の青森県三戸郡南部町に創建されたことに始まる。開山は三光国師( 孤峰覚明 1271~1361)、本尊は釈迦如来。かつてその一帯は南部氏の居城になっており本三戸城(もとさんのへじょう)と呼ばれていたが、後世になって聖寿寺館(しょうじゅじだて)とも呼ばれるようになった。
慶長3年(1598)第二十六代南部信直公は現在の盛岡に築城を開始した。その子第二十七代利直公を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)第二十八代藩主重直公の時である。築城にともなって諸寺院が北山周辺に集められ、三戸にあった聖寿寺も移転し、山号を『大光山』寺号を『聖壽萬年禅寺』と改めた。末寺は同市の長松院、遠野の瑞應院、三戸郡南部町の三光寺、十和田の浄圓寺など十ヶ寺を数えた。
盛岡城下に移転してきた寺院の中でも南部家に所縁のある「盛岡五ヶ寺」は藩から特別な待遇を受けた。寛永十一年(1634)の『寺社待遇』には、藩の祈祷寺であった真言宗永福寺の寺禄が八百石、ついで臨済宗聖寿寺が五百石、同じく臨済宗東禅寺と時宗教浄寺がが二百石、曹洞宗法恩寺が百八十八石が与えられていたことが記載されている。聖寿寺は七堂伽藍を備え、絶えず三十名以上の弟子がいた。中興開山である第十八世大道和尚(入寺1671~1700)の代には全盛期を迎え、全国から八十余名の門人が集まって修行をしていたという。
聖寿寺全図(江戸時代) もりおか歴史文化館蔵
明治時代になると幕藩体制が崩壊し、南部藩は戊辰戦争で敗れて朝敵とされたことにより、宮城県白石へ転封となる。藩は多額の上納金を支払って再帰できたが、激しい時勢の変化により藩からの寺禄を失ってしまった聖寿寺は衰退の一途を辿る。さらに神仏判然令の逆風によって寺院の形をとどめないほど荒廃していった。
明治八年(1875)になると、聖寿寺の広い境内地に桜山神社が移転した。神社は幕末まで盛岡城内に祀られていたものであった。そのため聖寿寺は境内の片隅で如意庵という仮本堂に移され、正規の住職もいない被兼務寺院となってしまった。
明治三十三年(1900)、桜山神社が現在の盛岡城跡に移転することになったが、ついに寺院が再建されることはなかった。
広い跡地には芝生が植えられ、周囲には百本もの桜の木がうえられており、春になると大勢の花見客でにぎわった。また少年たちの野球場や町内会の催し物が開かれる憩の広場となっていた。
現在でもこの地を「旧桜山」と呼ぶことがあるが、明治時代の二十数年間、「桜山神社」が鎮座していたことによるものである。
昭和五年になるとこの地に正面に神明鳥居を配した南部家の霊廟が建立された。同年一月に亡くなった第四十三代利淳公の遺骨が最初に納められたが、その後の当主の遺骨はここに納められる。「質素なるも壮麗な内部」と当時の新聞に報じられた。
明治・大正と長い低迷期を経て、聖寿寺が現代に江戸時代のたたずまいを残しているのは、かつて五重の塔であった千体地蔵堂だけとなってしまったが、戦後になってようやく寺院の復興の兆しがみえはじめる。
本堂は昭和三十四年に建立されたもので、元東京女子医大学長をつとめた久慈直太朗氏の寄進による。本堂が八角形であるのは、聖寿寺の再興を願って、聖徳太子偲んで建てられた奈良県法隆寺の夢殿を模しているからである。
昭和五十一年には山梨南部町の南部ライオンズクラブと盛岡中津川ライオンズクラブによる南部家墓所の石段の大改修が行われた。また、平成十一年には庫裡が完成している。