聖寿寺縁起

聖寿寺」は建長六年(1254)、南部家第二代南部実光公が初代光行公の菩提を弔うため、青森県三戸郡に福壽山「三光庵」として創建したことに始まる。かつてその一帯はは三戸南部氏の居城があり「正寿寺館」ともよばれていた。
三光庵の名称の由来には諸説あるが、南部藩の諸職に関する古文書『篤焉家訓』によれば、開山が三光国師 孤峰覚妙禅師(1271~1361)であったことによると伝えられる。

三戸から盛岡へ居城を移転するにあたり、南部信直公は文禄二年(1593)中絶していた菩提所を再興したいと考え、代々臨済宗を信奉していたことから仙台領松島の円福寺の第九十四世石門宗硬和尚を招聘し中興開山とした。円福寺は伊達政宗が慶長十四年(1609)に再興した今の瑞巌寺である。

現在の盛岡北山に「聖寿寺」として完成したのは、第二十八代重直公の時。三戸にあった 三光庵を移し、山号を『大光山』寺号を『聖壽萬年禅寺』と改めた。三戸の三光庵は聖寿寺の末寺となった。末寺はそのほか同市の長松院、遠野の瑞應院、十和田の浄圓寺など十ヶ寺を数えた。

盛岡城下には多くの寺院があったが、中でも「盛岡五ヶ寺」は藩から特別な待遇を受けた。寛永十一年(1634)の『寺社待遇』には、藩の祈祷寺であった真言宗永福寺の寺禄が八百石、ついで臨済宗聖寿寺が五百石、同じく臨済宗東禅寺と時宗教浄寺がが二百石、曹洞宗法恩寺が百八十八石が与えられていたことが記載されている。聖寿寺は七堂伽藍を備え、絶えず三十名以上の弟子がいた。中興開山である第十八世大道和尚(入寺1671~1700)の代には全盛期を迎え、全国から八十余名の門人が集まって修行をしていたという。

明治時代になると幕藩体制が崩壊し、南部藩は戊辰戦争で敗れて朝敵とされたことにより、宮城県白石へ転封となる。藩は多額の上納金を支払って再帰できたが、激しい時勢の変化により藩からの寺禄を失ってしまった聖寿寺は衰退の一途を辿る。さらに神仏判然令の逆風によって寺院の形をとどめないほど荒廃していった。

明治八年(1875)になると、聖寿寺の広い境内地に桜山神社が移転した。神社は幕末まで盛岡城内に祀られていたものであった。そのため聖寿寺は境内の片隅で如意庵という仮本堂に移され、正規の住職もいない被兼務寺院となってしまった。

明治三十三年(1900)、桜山神社が現在の盛岡城跡に移転することになったが、ついに寺院が再建されることはなかった。
広い跡地には芝生が植えられ、周囲には百本もの桜の木がうえられており、春になると大勢の花見客でにぎわった。また少年たちの野球場や町内会の催し物が開かれる憩の広場となっていた。
現在でもこの地を「旧桜山」と呼ぶことがあるが、明治時代の二十数年間、桜山神社が鎮座していたことによるものである。

昭和五年になるとこの地に正面に神明鳥居を配した南部家の霊廟が建立された。同年一月に亡くなった第四十三代利淳公の遺骨が最初に納められたが、その後の当主の遺骨はここに納められる。「質素なるも壮麗な内部」と当時の新聞に報じられた。

明治・大正と長い低迷期を経て、聖寿寺が現代に江戸時代のたたずまいを残しているのは、かつて五重の塔であった千体地蔵堂だけとなってしまったが、戦後になってようやく寺院の復興の兆しがみえはじめる。

本堂は昭和三十四年に建立されたもので、元東京女子医大学長をつとめた久慈直太朗氏の寄進による。本堂が八角形なのは、聖寿寺の再興を願って、聖徳太子偲んで建てられた奈良県法隆寺の夢殿を模したものである。

昭和五十一年には山梨南部町の南部ライオンズクラブと盛岡中津川ライオンズクラブによる南部家墓所の石段の大改修が行われた。また、平成十一年には庫裡が完成している。

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2017年02月19日
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